長崎屋会津若松店

「30年間のご愛顧誠にありがとうございました。」会津若松市のメインストリート、神明通りに店舗を構えて中合会津店とともに地域の商業の核としてあり続けた長崎屋会津若松店が市民に惜しまれながら閉店した。未だ冷たい風が吹き続く季節、2002年2月11日である。

 

長崎屋会津若松店は昭和46年4月にオープンした。アーケードのある神明通り沿いのビルに入居し、食料・衣料・生活用品・雑貨等々総合的な大型スーパーとして中合会津店とともに会津地方を代表する店であった。近年各地方都市では郊外に大型店が相次いで進出し、中心市街地の買い物客を奪ってきている中、会津若松市では目立った郊外店は見当たらず、神明通りを主とした中心市街地はごく最近まで活気にあふれていたのである。しかし、磐越自動車道の整備や郡山行きの高速バスが徐々に増便されたことで福島県の経済県都郡山市へのアクセスが徐々に容易になっていった。所要時間が1時間の圏内に入ったことでマイカーや高速バスで郡山に買い物へ出かける人が増加していった。さらに駐車場が有料で利用に不便な神明通りの人手では徐々に減少していったのである。アーケード街の人通りは昭和50年代には1日あたり17000人あったが最近では4500人にまで減っていた。
その中、長崎屋会津若松店は平成2年にピークの42億円の売り上げをあげたが、平成12年度、売り上げが初の赤字に転落し
店舗の老朽化と相まってこのままでは営業継続は困難と判断、長崎屋の会社更正法による経営再建策の一環として長崎屋会津若松店は閉店することが決定したのである。

 

店舗には閉店セールの張り紙があちこちに貼られ、最後の営業に力を入れていた。

 

店の入口には閉店の挨拶が貼られていた。当初は2002年1月14日に閉店の予定だったが2月11日まで延長された。

 

店舗の中は大勢の買い物客が押し寄せていた。エスカレーターには次々と人が並び、長崎屋での最後の買い物を楽しんでいた。店内は既に空になった商品棚が目立ち、各階残った商品をさらに値引き販売していた。

 

出入り口には次々と買い物客が出たり入ったりしていた。神明通りには長崎屋付近を中心に、路上駐車が目立っていた。

 

夕日に照らされてながら最後の営業を続ける長崎屋会津若松店。

 

買い物を終え、店から出てくる人々。中には大きな荷物を抱えている人もいた。そんな人々と入れ違いでこれから店へ入る人も。出入り口での活気ある光景。

 

この日は祝日だったが気温が上がらず、日中も冷え込んだ1日で神明通りの人通りもまばらだったが、長崎屋の周りには夕方になっても普段以上の大勢の人並みができていた。

 

薄暗くなった頃、一旦人の流れは落ち着いたものの暗くなると勤め帰りの人々などが大勢押し寄せ、店内は最後まで活気に包まれていた。商品よりも人の数の方が多くなってきていた。店内では最後まで店員さんの「いらっしゃいませ!」という活気ある声が各階で響いていた。中には、涙ぐんでいる店員さんの姿も…。

 

神明通りに面する出入り口で、店員が買い物を終え出てくるお客さんに「ありがとうございました。」とそろって礼をし、感謝の気持ちを伝えていた。閉店時刻の19時30分が近づくにつれ、店内では家庭用品7割引、アクセサリ1000円均一などの値引き放送が乱発し、買い物客が大勢エスカレーターを駆け上がっていく姿が印象的だった。

 

閉店時刻間際、店内には蛍の光が流れ始めていた。「長崎屋会津若松店は本日2月11日をもって閉店させていただきます。30年間のご愛顧、誠に誠にありがとうございました。」と館内放送が流され、店内の上りエスカレーターが停止された。最後の買い物客も、それぞれ様々な想いを胸に次々と長崎屋を後にしていった。

 

19時36分、長崎屋会津若松店の最後のシャッターが降り始めた。

 

30年間の感謝をこめて、店員が最後に改めて外にいた市民に向かって深く頭を下げ、「ありがとうございました。」

 

遂に閉じられた長崎屋会津若松店のシャッター。もう、長崎屋としてこのシャッターが開くことはない。

 

シャッターが閉まるとつい数分前まで活気にあふれていた長崎屋前の神明通りが一転、静かになった。長崎屋のロゴが入ったシャッターを照明が明るく照らし続けているのが印象的。

 

最後の営業を終えた長崎屋。このビルは、同じ神明通りに本部・店舗を構えるLion D'orが買収し、複合型商業ビルとして早ければ今春にもオープンする予定。空きビル化が解消されるメドが極めて早期に立ったことで、新店舗に期待が集めっている。